今更抄

「今更でしょ」な話を今更

「名前」

 「名前」ってのは厄介だ。

 

 面倒なことは色々あるが、まず1つに名付けた人の価値観や願い・それに向かい合う態度が如実に出てくる。尊敬する人の名前から一字貰った、〇〇にはこうなってほしい、甲々になってやるといった気概のようなものを、「名前」から何の気なしに放っている。こんな思いを大腿の人は感じ取ってしまうだろう。

 これは良い事だろう。少なくとも悪いことや恥ずかしいことではない。めちゃくちゃ恥ずかしいかもしれないが、胸を張ってやるべきなんじゃなかろうか。ある種の立志であり、願掛けであり、呪(まじな)いである。人の名前だったらその人の人生で1番多く書き/口にし/呼ばれるものになるだろうから、習慣となる言葉と言っていいだろう。なるべくなら、良い習慣を付けたいじゃないか。

 

 また、「名前」は1つの姿であるから、それを知る事で対象を知ることができる。不安は紙に書き出せって、聞いたことがあると思う。あれは不安に形を与えることで負荷を減らすことだろう、正確な実験結果や研究は知らんが。自分が戦士だとして、いつ奇襲を受けるか分からない負荷と決戦の日が決まってる負荷を比べると、両者どちらもストレスフルで胃に肺に穴が開きそうだが、奇襲の方がキツい気がするでしょ?

 

 知らないより知っている方がいい。そっちの方が得である。まぁ、「得」=「よい」という等式も疑った方がいいけど。

 

 それはさておき、では「名前」が良いもの一辺倒かっていうとそんな訳がないだろう。最初に厄介って言ってるし。

 最初に言っていた「名前」と態度の話では、まず名付けた人の「これまで」がモロバレする。文脈や価値観がなーんとなく感ぜられるじゃない。宗教的な教養を感じるときや、それまでの文脈から哀感を感じるときがみんなあるだろう。どんな時でも、ヒーロー/ヒロインに昔の恋人の名前を付けたり、その文字を使うのはやめよう。な。

 未練の話は措いておいて、「名前」を付けられた方も「名前負け」というワードがあるように、「名前」に相応する実態が求められることもある。それによって色々と起きるのは学校生活で屡々目にしてきただろう。

 また、姿については先人たちによって指摘をされまくっているが、姿を知ることで安心しきってしまったり、クッキー型のように「名前」を他者へ押し付けて切り取った/押し込めた姿を見ているだけにもなりかねない。切り抜かれなかった生地に皆様の大好きな本質があることだってある。

 私たちは、このように「名前」が先に来ることでモノそのものを見ることが出来なくなる状況に陥りかねない。必要に応じて門の表札を読むのみならず、チャイムを鳴らして人に会う必要があるし、なんなら門を通って異国に身を投げ出すことも必要だろう。

 加えて、表札が違っても質さなければ、当該の表札で誤認してしまう。他人のみに起きることではなく、誰にでも起こり得る。他人の家の表札をこっそり変える人や、恥じらいも無く堂々と変えていく人だっている。その時の損害はどれほどのものであろう。

 自ら掛けている看板も、誰かに掛けられている看板も、どちらも嘘つきかもしれない。

 

 では、そのような危険があるものなものならば、いっそのこと使用を止めてしまおうと言いたいが、それはあまりにラディカルな行動だ。そんなことをすると、私たちは絶句し続ける以外にない。そこまで行かずとも新しいものの制作をやめ、旧来の「名前」とその組み合わせに頼ろうとしても、それはそれで生き生きとした感じが薄い。

 それならば先に全ての「名前」を網羅しておき、その階層構造も明確化しておく手もある。しかし、これはきっと窮屈で、先ほど同様に見えなくなるモノがある。名付けられていない空間は欲しい。無名があるからこそ、有名が有意義なのだ。

 

 それでもやっぱり「名前」があるほうが便利だし、名前がなければこの社会で生きて行くのは面倒になる。だからといって、面倒になるからネガを認めないのは、それなりのしっぺ返しがあるだろうから、これを含んだ考えを確認したい。

 

 ではそれは、と書いていきたいが、長くなったのでここで仮閉じのポワンを打ちたい。いつにも増して具体的に書いてきたし、細々書かなくても、この行為からも了解されると思う。勿論2回目ながらに「いつも」なんて使うのはご愛嬌ということで。