今更抄

「今更でしょ」な話を今更

別れ

 先週は月曜に更新をできなかったが、これは面倒なお題をどうクリアするか考えてていたらこうなってしまったのだった。最近ちょっとやっていることで、「別れ」というお題が出された。これが非常に難航して、いつもならば大体2日を費やせば、出来は不問に付すとしても、まあ仕方がないと思えるものが出来た。しかし、今回はどうにも手が動かず、1週間が経過してしまった。失態であり、叱咤の対象であろう。

 

 別れはさっぱり分からない。テキストに載っているヒントとしては、物理的に別れるシーンを入れることで一つの象徴的なニュアンスが出るという旨が書いてあったが、この別れ、一体どの程度のレンジがあるのかという話である。

 いやいや、そこを考えるのが創作者としてのあなたの役割でしょうと言われるとぐうの音も出ない。

 ぐぅ。失礼、腹の音である。

 しかし、みんなはどの程度の別れを想定しているのだろうか。

 

 昨日図書館で頭木弘樹著『絶望名言2』(2019年,飛鳥新社)という本を借りた。この本は、1人の作家(?)の名言を集めて云々するラジオ番組をテキスト化したもののようだが、ページをめくっていると、教科書掲載の「字のない葉書」というエッセイで見知った向田邦子氏が俎上に載っていた。

 筆者の頭木氏は向田氏の『家族熱』というテレビのシナリオから抜粋したのは以下のセリフである。

 

自分でも納得して、

キッパリ別れたつもりでいるでしょ。

思い切って遠くの土地へ行って、

新しい仕事はじめて

――昔の暮し、すっかり忘れたつもりでいるでしょ。

そうはいかないのよ。体の中に残っているのよ。

(『家族熱』大和書房)

出典:頭木弘樹著『絶望名言2』2019年,飛鳥新社(p.147)

 

 『家族熱』という作品のドラマを見たこともなければ、シナリオも読んでいない。なんなら向田は私の生まれるとうの昔にこの世を去っているそうだ。そんな関わりの薄い作品から孫引きするは良くないのだが、問題はここからの話である。「そうはいかないのよ。体の中に残っているのよ。」が何とも重く響かないだろうか?

 

 新しい環境に行って、新しい人と会って、いろんなことをしている中で、全く関係ないはずなのに昔の記憶や昔覚えた身体の動きや考え方がヒョコっとオートマチックに飛び出してくることがある。歩き方や手の上げ方、雷や雪に対する反応などからこれまでの何かが見えてしまう。また、知り合って間もない人の爪や鼻の形、言葉や考え方に、なんとなく昔の知人・友人の姿を思い出して苦笑いすることだってある。

 この昔の人達の多くとは別れた後であるし、関係性なんて最早ないに等しい人が多い。終わった関係性と言ってもいい。けれど、このように思い出したり、行為の際に意識の有無にかかわらず顔を出してくるのだから、本当に別れているのか、終わっているのだろうか。終わるなんてことがあるのか分からない。

 もしかしたら、何となく一緒にいたけれど、別れてからが本当の関係性が始まるということだってあるかもしれない。それが良いのか悪いのか、また希望なのか絶望なのかは分からないが、まぁどっちかって考える余地があるならどっちでもいいよね。

 

 こんな調子だろうから、別れるのは相当に面倒で入り組んだ出来事である。だからこそ別れるために、式を開いたり、書類を書いたり、何かを手離したりという象徴的行為を行い、心理的にも、社会的にもなるべく簡単に済ましたことにしているんだろうと思う。「これしたんだから終わりにしましょ」ってね。

 これこそが象徴ということであろうし、物事の有限化という知恵だなと感じる。

 

 出会った人々・モノの影響は数多揺曳しているのだろうから、日々の諸事に気を払いつついたいなぁと思ってはいる。ただ、どうにも先のセリフのキャラクターが正気を失う結末になったらしく、揺曳を気にしすぎるのもよくないだろう。

 まぁでも、そうだと思っているので、少しは善い言葉や善い動作を使いたいなと思うのである。できるかは知らないので努力目標だけど。

 

 そんなこんなで、しっかりした別れを表現するのは大変に骨が折れるよなと思いつつ、「別れ、別れ、別れ」とつぶやきながら散歩をし、不審者度を上げて少し早めのウェイウェイサマーしながら、アゲて適当に書き飛ばしたものを提出してしまった。

 これでお別れといきたいところだが、しっかりフィードバックがあるので、ここからが本番である。