今更抄

「今更でしょ」な話を今更

つまらん人にはなるな

 「つまらない世を面白く」というフレーズ、詩歌に疎いので下の句を知らず、歴史に疎いので、そんなことを言われても「あっ、そうですか」と返す以外に何もないが、思えば「つまらない」から「ない」を取ったら「つまる」である。

 面白く無いことは大体捗らない、はかばかしくはいかないものだが、それが「つまる」の否定形とはこはいかに状態である。つまったら楽しいというのは万策尽きて高揚してくるということではないか。マゾヒズムが本邦には蔓延しているのだろうか。やはり不思議の国の日本なのか。

 

gogen-yurai.jp

 

 そんなこんなで、語源をネットレベルで調べると、上記のようであるらしい。これに依拠するならば、どうやら「つまる」には「納得する」「決着する」といった意味合いがあり、そこの否定形ということらしい。ふ~ん、つまり納得できるということが「つまらない」を回避する要諦らしい。この「つまる」は「最奥」とか「詮ずるところ」といった究まるニュアンスを感じる。感じるよね?

 

 しかし、分かるということが「つまる」ことの決定的な条件なのだろうか。そんな分かりってしまう事が楽しいのだろうか。

 

 数学者の岡潔と批評家の小林秀雄は、対談『人間の建設』新潮文庫,平成22)の冒頭で学問についての話をしている。

 

岡 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質を持っています。好きにならぬのがむしろ不思議です。(略)

小林 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。(中略)つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。(中略)ところが、学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですよ。

(前掲書,pp.10-11)

 

 野球で難しい球を打つのが楽しいという小林の話を略したためか、端折り方の問題もあって噛み合っていない気がするもが、嚙み合っているかどうかなんてどうでもいいだろう。会話なんてそんなもんだ。詳しくは書物を読んでもらうとして、ザックリ言うと岡は「打ち込んだもの、好きになるよね」と言っているし、小林は「簡単なことはつまらんのであって、難しいほど面白いんだよね」と言って、まぁ「打ち込めるものがおもしろい!」ってことでグルーヴしているってことでいいと思う。

 ちなみに先の引用の末にある小林の言に対する岡の反応を略さずに書くと以下の通りである。

 

 そうですか。

(前掲書,p.11)

 

 それはそうとして、それが深かったり難しい程打ち込むことになりがちだが、それをしてしまうと楽しかったり対象が好きになるってのは私たちが日頃から体験していることだと思う。少し毛色は違うかもしれないが、「なんだよアイツ」って思っているだけでそれなりに愛着が湧くことあるじゃん。良かれあしかれ。ね。

 

 そうなるとやっぱり私たちは難しいことに対して、「つまる」ことに対して本来的にはどうも惹かれてしまうらしい。

 

 先の引用から「むずかしい」と「すき/すく」と「おもしろい」に関連がある感じがしたが、たまたま流していた『論語』の雍也の20にはこんな文章があった。

 

子曰、知之者不如好之者、好之者不知樂之者

金谷治註訳『論語』1999,岩波文庫(pp.117-118)

 

 訓読文と訳文を引用する作法が分からないので、それらは本を読んでもらうとして、先師が言うには「楽しむ人>好む人>知ってる人」ということらしい。まぁ、『論語』の全体を読まずに(だって後ろの方かったるいんだもん)ここだけを引用するのは悪いSNS 作法みたいなもんだが、その点には当然留意するとして、どうやら「楽しむ」(=「おもしろい」として扱う)と「好む」ということの間には長年の因縁があるらしい。

 

 これを、岡と小林の話とフュージョンアップしたうえで、私の恣意的な思惟を入れると以下の事が言えるのではないだろうか。

 どうやら「好む」というのは行為によって現れる状態であり、簡単にいうと結果という名詞的な感じであって、対して「楽しむ」というのは行動中で、まぁノッているとか、その知識の中を生きているというような動詞的な感じである。って言えない? 言えるよね?

 

 「好む」というのはどうにもトキメキや出会い、個人的な意義というのが行動に先行すること考えて、またそうあって欲しいと思いがちだが、これはあくまで魅了「される」瞬間を立ち止まって待っている状態と言えるのかもしれない。しかし、「好む」が行動の結果によって生じる物でもあるのならば、まぁ何となく色々と取り掛かってみる必要があるんだろうなという話になってくる。そもそも、トキメクにも体力や知識や知恵や勇気といった強さが要るから、完全に受身でトキメクことはない気がするけど。

 ま、その気が無ければ、スイスイ進む状態から急に立ち現れた艱難に打ちのめされておさらばしちゃうもんな。

 

 何かに出会って一気に変わるという、劇的な認知の変更・実存の転換というも在ってくれたら嬉しいけれど、偶には自分から魅了「されに行く」という話もあっていいじゃないか、なんて最近は思う。大切なのは心がけとか、認識とか、態度な気がするよ。うん。冒頭の句も下の句は「住みなすものは心なりけり」という感じで続くらしいし。

 

 むずかしいことに取り組んで、究めようとしている時が楽しいし、まあ対象を面白いと思える感じらしい。心も変わって世が楽しいという感じだろう。

 

 とはいっても、「つまる」というのは、排水溝のつまりのように何かの奥細いものが渋滞していることによって生じるものである。詰まりの先は必要なのだ。この深さの存在こそが究めることに繋がっていくとおもうのだけれど、特定のジャンルで体系が確立している場合には、先達たちはどうにか詰まりの先の風光を教えたり、担保したり実証する存在であってほしいし、そんな人に出会えるなら幸いだ。

 

 勿論、「つまり」は渋滞であるから「詰まり」なのであって、そこで打ち止めならば終わりなので、是非とも打ち切りは回避をしてほしい。だって、私たちの冒険はまだまだこれからだ!って感じじゃないか。

 

 あ、そうそう、そういえば「つまらん」って九州や山口の方言では標準語にはない意味を持っててね、って2000字超えてるの?

 じゃ、おしまい!