今更抄

「今更でしょ」な話を今更

本棚

 本棚、といっても個々人が持っている本棚についてだが、どんな本を本棚に置いているか、また、それらの本がどのように配置されているかということで、多少はその人の感性や方向性・興味関心を理解できると思っていた。

 確かに、何度も読み返す本こそを手許に置くものだろう。読んでみて、「なんかなぁ」と思った本や、一読して用が足る本はさっさと売ってしまう、なんていわれると一理ある。

 

 まだまだ部分的な理解であった。

 

 今日、自分の下宿の本棚を見たが、読んだ本はほんの数冊であると気が付いた。分かることなんて、何の整理も無く雑然と本を書棚に詰め込むという持ち主の気性が分かるだけである。

 「一読して用が足る本」ではなく、「十読して用が足る本」を5回くらい読んでいる時は本棚に収めるだろうし、「なんかなぁ」と思った本でも「後で(と言っても数年後かもしれないけれど)読む日がくるような気がするなぁ」と思った本も書棚に戻すはずである。

 なにより、私の本棚自体が「いつか読みだろう」という本と「(読んでみてわからなかったが)いつか手に取りたくなったら分かるだろう」という本、なんなら「ノリで買ったが多分読まないな、これ」という代物ばかりなのである。

 

 考えてみると、とても大切な本でも、いや大切で何度も読んだ本だからこそ、内容の大枠を覚えてしまっているほどに大切だからこそ、大切な知人に渡してしまうこともある。そんなときに、何度も読んだ本だからボロですみませんと言うか、中古で安く手に入れたからボロでゴメンネと言って渡すかは人に依るだろうが、まぁそれは別の話である。中古で手に入れてボロだが大切な本だってあるが、それもやっぱり別の話だ。

 

 「聖典なんて暗記してるものでしょ」みたいな人だっている(といっても、それはラビとかそんな職種であるかもしれないけれど)と聞いたことがある。記憶力が悪い私としてはそんなことが出来るものかと思うが、それが商売の第一条件なのだから大体できるんだろう。その人の本棚には聖典があるし、その場所はきっと信仰的な意味合いから一等地を割いているだろうが、正直に言うと失くしても困らないのかもしれない。

 もしかしたら、「本そのものはただの物質であり内容が大切なのだ」というロジックで本という物質をそれほど重要視しない人だっていうるのかなぁと思うが、これについては私の妄想である。

 

 本や蔵書に対する個々人の基本的な態度の違いを考えると、色々と決定的なところは違うだろう。「本棚って〇〇なんですね」と知識人ぶって言うこともあるが、それに外れた在り方は数え切れない。大切なものこそ持たない人だっているかもしれないし、大切だからこそ大切な位置に置いている人もいる。知らないから置けないという事態と、知っているが置かないという事態は違う。

 

 知っているが置けない大切なものは「記憶の中の本」であったりする。

 その記憶の中の本は、物質として実在している本とは内容が違い、ページが大きく省略されていたり、他の人が知り得ないようなページが挿入されていたりするものだ。外から覗うには相当の努力が必要だが、残念なことに、それを口に出すことをする人をあまり見ない。

 一番大切な記憶や言葉こそ、その個人性によって誰とも共有を出来ないのが世の常なのかもしれない。

 

 多少はその人の感性やら方向性を理解するために、本棚をみることは有用だろうとは思う。しかし、よくてアタリ程度であろうし、もしかしたら全部が誘導のためのフェイクかもしれない。

 本棚の中身から人をまるっと帰納することは容易ではないなぁと思ったのであった。

 

 私自身は色々と買い溜めているが、これらの本が好きだからこんな人間であると思われてしまうと、本に対して申し訳が無い。一応、間々にピンク小説や適当な古本というノイズを入れているものの、誰に宛てるともない言い訳の雑文に時間を費やしてしまった梅雨明けだった。