今更抄

「今更でしょ」な話を今更

"感"

 ドラマの『孤独のグルメ』を流していると何となく気持ちがいい。男性がモノローグで色々と言いながら豪快に食べる姿は見ていて気持ちがいい。

 

 食事をするという時に、味だけでなく見た目や食器、テーブル・部屋の飾りつけといったものも含めて食事だということはみんな知っている。それも含めて統一感や気持ちの良さがあると食べてて楽しいことが多い*1

 部屋などの環境が味、というか楽しさに繋がるのであれば、誰と食べるかということもかなり重要なファクターとなる、のは今更だろう。

 食事をしに行くと、学生から老人がグループで食事をしていることを見ない日はそうそうない。むしろ、1人の食事は味気ないものであるという言説の方がよく風に乗ってる気がする。

 味そのものは変化しなくても、感じ方が違うことはしばしばあることだ。

 

 こう考えると、1人で食事する『孤独のグルメ』の井之頭五郎と風説との間に深いギャップがあるわけだが、ここを楽しんでいるような気がする。

 このギャップそのものを楽しむだけでなく、色々と妄想してみよう。「なぜ五郎ちゃんは1人で食事を楽しんでいるのだろうか?」

 これからは様々な回答ができる。「五郎ちゃんは飯を食べるのが好きなのだ」とか「五郎ちゃんは他人に配慮せずにご飯を食べることに幸福を感じている」とか「腹一杯食える楽しいじゃん」といった答えがあろう。可愛げのないものだと「フィクションだから」とも言われそうだ。

 「五郎ちゃんは飯を食べるのが好きだから」を語ると「1人で食う時に味がしないという人は飯を食う行為そのものを楽しんでない/楽しみ方がわからないんじゃないか」と言った話に繋がるし、「他人への配慮」を語ると「食事の量や内容で和を乱すこと、また時間や用事を考慮して食事を摂るというテーゼを持っているんだな」みたいなことが分かってくる。

 

 ここで1つ「孤独」について考えてみよう。独りぼっちは寂しいものだが、私の見る限りでは五郎ちゃんにはそれが感じられない。

 「好きなことをしている求道の状態では、独りぼっちも寂しくない」みたいな好きなことヤクザ的思考も嫌いではないが、ここでは別の方向からアプローチしてみたい。

 

 哲学者の三木清が書いた『人生論ノート』*2という書物の中に「孤独について」という節がある。パスカルの引用から始まり、以下のように本編は始まる。

 

孤独が恐しいのは、孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の条件によってである。

出典:三木清『人生論ノート』

 

 ここから先ほどの「好きなことをしているかいないかの違い」が孤独の条件に当てはまりそうなものだが、もう少し先を読んでみよう。

 

孤独というのは独居のことではない。独居は孤独の一つの条件に過ぎず、しかもその外的な条件である。むしろひとは孤独を逃れるために独居しさえするのである。

出典:前掲書

 

 三木は「孤独」の外的な条件、つまり1人でいるか複数人でいるかという物理的な状況が「孤独」の状況ではないと言っている。これこそが五郎ちゃんを見て私が「孤独」でないと思った所以だ。物理的な形では孤独であるものの、形以上に「孤独」の本質的な条件があるはずと考えているらしい。

 

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。

出典:前掲書

 

 すなわち、他の存在と場を共有しておきながら、このような「間」、言い換えるならば繋がりや一体感が無いことが孤独なのだと言っているっぽいのだ。

 

 これまでの流れをガヴァッと要約すると「孤独、というか『寂しい』って独りで居る時に思うけどさ、みんなの中にいた時の方がもっと寂しいって思うじゃんよ」的な話だろう。

 ここから先、三木が語っていることは難しくてよく分からないので、どのように話を進めていくのかは個々人で読んでもらうとして、先の要約の問いから話を続けよう。

 

 一般に言う孤独を形的・状況的なものとして「独りぼっち」であるとするならば、「みんなと一緒に居る方が寂しいのよね」というのは形的には違うが精神的にそうなのだから「孤独感」と言うことにしておきたい。

 この孤独感というものは大変に迷惑な代物で、形の上では集っているにも関わらず、感覚的に集まっている感じがしないという不和を感じさせる。いやむしろ、ひどい時には「みんな」が楽しそうにしている一方で、「わたし」はその輪に入れていないという引け目を感じかねない代物だ。

 この孤独感が生じる人と生じない人がいるし、これが生まれるのは自然の産物であろうから良し悪しは言えないのだけれど、私たちが生きている以上、誰かと本来的に1つになることはできない。そのため、もしも実感したら連れ添っていく必要のあるものになる。連れ添いを斃すと刑が待つように、この連れ添いも斃そうとすると刑が待っている、かもしれない。

 

 ここで、五郎ちゃんの話に戻ろう。

 三木清はこんなことを言っている。

孤独を味うために、西洋人なら街に出るであろう。ところが東洋人は自然の中に入った。彼等には自然が社会の如きものであったのである。東洋人に社会意識がないというのは、彼等には人間と自然とが対立的に考えられないためである。

出典:前掲書

 この話を読むと他者(≠他人)として物体も含まれることが察せられる。五郎ちゃんは人との関係のうえでは孤独ながらも、場を共有していると感じている食べ物とは繋がりを保ち、かつそれを食べている。それはある種の「孤独感」に対する最強の解消方法であり、単話という枠内しか見れない私たちからすると孤独という状況の完全解消を行なっているように見えもする。

 私たちは孤独に限らず、何かにつけて100%を得られないから「〇〇感」に苛む*3。それゆえ知足を求められる。

 しかし一方でやはり100%を求めてしまうから、そんな感じに見える五郎ちゃんを観てしまう。そんな気がする。

 

 とまぁ、胡乱な論を紡いできたが、そんな面倒なことはさておいて、上手いものが出てきて食っているのがいいなぁとか、五郎ちゃんのリアクションがいいよね、でよいのである。

 え、「『好きなもの』が『対象』であり、それとの一体感があるから孤独感がないのであって、やはり好きなことをしてるから孤独じゃないんじゃないか?」だって? そう思いたいなら、そう思っておけばいいんじゃない?

 書ききった私にはもう考える気力がない。腹が、減った、のだ。

 



*1:美味いだけが飯の良さではないという側面もあり、微妙に不味くて汚い飯屋というのがある面では最高だったりすることもある。味があるっえやつだ。また、栄養補給やら医食同源だとか言いたくなる人もいるだろうけど、今回は統一感あるとステキだし美味しいねってことで勘弁してよ、ね。

*2:今回は青空文庫から引用した。確認したい人は以下のURLから確認してほしい。まぁWebだし、引用ページとか指定しないけど、気になるならページ内検索してね。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/1914_63525.html (最終閲覧2022/06/18)

*3:孤独と真逆である交際があるからこそ「孤独感」という孤独の影に悩まされるように、対義語の影に悩まされるのかもしれない。ほら、満足してると「不満感」に悩まされたりしない? 幸福の中に幸福感を見出せるといいんだけど、赤の中からオレンジを見つけるような作業だし、補色である緑の方が見つけやすいとかあるのかもしれない。