今更抄

「今更でしょ」な話を今更

公園

 人のいる公園はオアシスのようだった。

 平日の昼間、上野方面に用事があり、ついでに公園の方で色々とサボろうと考え足を向けた。午後3時頃ならまだ学校も終わってないしとの算段であったが、これが大いにハズれだった。

 都会の公園は人のプールである。老人や若い夫婦、大学生、なんとも判別しづらい人などなど、多様な要素が溜め込まれている。手品をしている人やアコーディオン弾きなど、一芸持つ人がいるのは人混みがあるからだ。その様子を真剣に、または冷やかしで見る人がいるのは、こんな場所でしかありえない。

 そんなことを考えつつ遠巻きに見ていたが、なんともうしろめたい気持ちになって、用事を済ませようと予想していたよりも早く目的地に向かった。

 

 用事を済ませ、駅へと向かうという理由で再び公園を歩くと、時間から学生が増えていた。一方では中学校指定と思しきダサいバッグを枕にし、友人と寝転んでいる。他方、部活のランニングでメンバーに声援を送っている人もいる。駄弁るのも熱意を沸らせるのも、どちらも青春だ。ただ、ここまで近くに共存するのは公園という場所があってこそだろう。ファミレスには熱意が、競技場には駄弁りが馴染まない。この2つの温度差が調和して均衡していることがあるのかと、目の端に入った光景に驚いた。

 

 生まれ育った場所では、あそこまでの広さの公園がないし、小さな公園に行く人も少なかった。老人はイオンへ、子どもは家でゲームをするほうがメジャーという印象だ。ベッドタウンと田舎の中間に住むと、自然と触れ合うこともなく、街に行くことも手間で、結局はドアtoドアの生活になる。

 こんな生活では、広場の入る場所は無く、人の多様な姿よりも山から降りてきた猿の方が出会いやすいかもしれない。アレもコレも、全て各人の大切な青春だが、こんな場所が有ったら、近くに見つけていたら、世界はもっと瑞々しいものだったかもしれない。

 

 ぼーっと歩いてると、秋葉原に出ていた。駅前では20代くらいの男子たちがナンパの極意を話し、道に迷っているお婆ちゃんの横でメイドがチラシを配り、コーヒーショップの席はアダルトショップに向かって設けられている。

 同じ広場だが、こちらはこちらで別の趣がある。それは何かと考える前に砂時計の落ちる砂の一粒のように改札口へと押し出されていた。今となっては、何を考えていたのか、もう覚えていない。そんなことに拘っているのも時間の無駄である。