今更抄

「今更でしょ」な話を今更

見た目か中味か

 見た目か中味か、これは永遠のテーマらしい。一度、合宿免許のメンツで飲んでいた時に、尻か胸かみたいな話をしていて、みんなそんなもんかと思ったことがある。よく考えたらこれ、見た目と中味の話しではないな。

 まぁ兎に角見た目か中味かみたいな話はある程度の正当性というか妥当性があるのだという風潮があると思う。正直どちらも同じようなもんだろう。そう私は思うのだ。

 見た目と中味、この対立が存在しないということはない。見た目は体というフィジックスな側面であって、中身はその人の心の優しさやらなにやらで、見た目とはまた別のステータスの美しさである。どーでもいいが、シンデレラってどっちも持っている圧倒的に持つ人間なんだよな。

 大抵において見た目と中味の対比は、可変の見た目と不変の中身という図式に落としこむことが可能だ。形而下の肉体は滅んでいくが、形而上の精神はエテルネを湛える。なんと素晴らしくも、明快な思考だろう。

 しかし、考えてみて欲しいが不変の中身ということがあるのだろうか。何かしらの体験をすることで、私たちの中身は少しずつ変化していく。中身はモノ・コトを受けた際のリアクションと、行動によって評価される。それでは、一昨年の行動と今年の行動、同じだろうか? 違うのではないだろうか。それらは、あくまでそれまでの諸々の行動を受けたことで生成される一時的な状態であろうし、変化もしていくだろう。いつ私たちが”目覚めて”しまうか分からないし、いつ”アンチ・目覚め”に目覚めてしまうかも分からない。

 こう考えていくと私たちの中身のかなり可変的なものだと思う。こうなってくると見た目と中味という対比についても、非常に一時的なものについての話をしているだけになっている。

 また、付け加えるならば、見た目も中味もどちらも相互的に影響を与えている。見てくれのいいひとなら云々みたいな話はよくするが、意外と中味が○○な人と知ることで見た目の判断が軽減されることだってある。不良の見た目が怖い的な話が、犬を拾うことで軽減されるのとかそうじゃないか。

 そうなるとこの2つを対立しているものと考えるよりも、互いに影響を与えて作り出すような渾然一体としたものと考えるのが適切ではないか。見た目か中身かなんて対立自体が、基本的にはナンセンスなのである。

 

 見た目と中味が可変の「状態」であると言うことになってくると、先ほどの可変と不変という対立軸に入れるべきは

 

可変:不変=見た目:中身

という図式から

可変:不変=状態(見た目&中身&ステータス):存在

 

といったようなものに転換するのが一番なのではないだろうか。

 これからは見た目か中味かではなく、状態か存在かといった方向で話してみるのはどうだろう。一体なにが「存在」とするに足るのかなんて考えて話してみると、すこし頭が良くなっているような気がするんじゃなかろうか。 

 いやいや、みんな酒の肴にテキトーに言っているのであって、そんなマジレスしなくても……と思うかもしれない。だれがこんなことを真面目腐って言うもんですかい。

 どんな優先順位か、とか、所詮人間エロだとか、そんな話をしてるんでしょ。分かってますよ。えぇ。

時に合ってほしいなぁ

先月中ほどから修羅っていて、そしてしばらく修羅りそうで、それ以前はサボっていたのでこんにちは。

皆さん元気ですか? 私は秋の風にやられて風邪気味です。

 

個人的に私が金城鉄壁と思っていたことが少しずつ崩れ始めているなぁと感じているので、やはり諸行無常だなと思いつつ、出来ればもう1,2年早くてもよかったんじゃないかなという気がしないでもないのです。

何かとタイミングの良い悪いという話がありますが、タイミングについては正直どうしようもないので、そこから始めていくしかありません。何かとヒトは勝手にタイミングを作っていたり、効率云々から意味の有る無しを勝手に想定した利してしまいます。こんな小さな流れにもあれば、世界情勢という厳つい言葉がぴったりな大きな流れだってあります。大きな流れについては、孔子だって時にあわなかったらしいですし、そう言い聞かせるのもありでしょう。

しかし、それはそれとして、可能ならば時に合ってほしいなぁと思わないではないのです。

 

まぁ、合う・合わないとか、その時が来る・来ないというのは非常に気長に待たねばならないものでもあるので、最終的に楽しくいくしかないのです。

音楽でも聴いて気楽にいきましょう。

 

勇者たちに告ぐ

 ヒーロー、ヒロイン。全国の勇者たちに告ぐ。文字情報での告白その他はやめよう。理由は2つだ。

 まず1つ。文字情報は残る。文字で残すことが文化と言っている人もいるが、後世まで、色々なところでそんなものを出されたり見せびらかされたらたまらない。そうだろう。惚れた弱みで云々ということならば、それは当にブレイブだ。

 そして2つ目は、少しダサいのだ。やっぱり正面切って行ってくる人間の方がカッコイイって思うのだ。相手にも自分にも逃げ場がないというのは、正直かなり厳しいことかもしれない。しかし、そんなことを受け入れ、出来る関係性が出来ていないと、後々やって来る面倒の際の話し合いだってできやしない。

 

 そしてこれは忘れないで欲しいのだが、そんな行為に及んでいる人はかなり頑張っている勇者といえます。それだけで十分称賛に値することですが、折角なのです、0か100かではありませんが、折角0から脱出したのなら、100に近づく努力をしてもいいのではないでしょうか。

 

 そして、受ける人は、そんな勇者の心意気だけは評価してほしいのです。それを受けるか受けなかは別ですが、お願いですが、そんなネタを擦り続けないでほしいです。あなたはそこまで小さい人間ではないはずです。これはただ、私からのお願いですが、心からのお願いでございます。

 

畜生

 夕方、買い物がてら駅前を散歩していると多種多様な人が、思い思いのことをしている。ランニングをする人や仕事終わりに飲みにいかんとする人だけでなく、塾に行こうとする学生などなどコレからが本番の人も本番の舞台を降りた人もそこにいる。

 犬の散歩をしている人の愛犬は白いチワワであった。短い脚を早くで動かしているにも関わらず、飼い主と繋がるリードは一向に張りつめる気配がない。雲を眺めてぼーっと歩いている私は、気配から下を見た。チワワと目が合った。

 あ、吠えられる。

 しかしこれは自意識過剰に終わった。吠えるに値しない雑魚であることがバレたのかと思ったが、すれ違った後に一度もワンという鳴き声は響かなかった。

 

 犬を飼ったことはないが、やはり地域にはいるもので、それなりに思い出もある。友人の愛犬であった芝犬のハリーはボール遊びが好きだった。通学路のお宅にいらっしゃる無闇に吠えるブルドックは、庭で放し飼いにされており、大きな柵に飛びかかって吠えてきて危ないったらなかった。小学校の帰り道に現れた野良犬は、吠えないものの痩せた体と大きな体躯でギラついた目をしていた。

 

 今となってはペットであり家族の一員となった犬猫だが、亡くなった祖母は「どんなに心が繋がってると思っても所詮畜生だから気を抜いちゃダメ」と教えられていたらしい。ある友人の祖母は、若い頃に野犬に追われて、貰ってきたばかりの猪の内臓をエサになんとか逃げたという。どれもけったいな話だなと思ったが、今更どういうことか分かった気がする。

 

 昔の話は何処まで本当か分からない。過ぎたものが本当はどうだったのかなんて、かなりのコストをかけないと分からない。ただ、似通った雲が赤く色づく空で、心配になるほど寄り集まっていることは本当だった。

公園

 人のいる公園はオアシスのようだった。

 平日の昼間、上野方面に用事があり、ついでに公園の方で色々とサボろうと考え足を向けた。午後3時頃ならまだ学校も終わってないしとの算段であったが、これが大いにハズれだった。

 都会の公園は人のプールである。老人や若い夫婦、大学生、なんとも判別しづらい人などなど、多様な要素が溜め込まれている。手品をしている人やアコーディオン弾きなど、一芸持つ人がいるのは人混みがあるからだ。その様子を真剣に、または冷やかしで見る人がいるのは、こんな場所でしかありえない。

 そんなことを考えつつ遠巻きに見ていたが、なんともうしろめたい気持ちになって、用事を済ませようと予想していたよりも早く目的地に向かった。

 

 用事を済ませ、駅へと向かうという理由で再び公園を歩くと、時間から学生が増えていた。一方では中学校指定と思しきダサいバッグを枕にし、友人と寝転んでいる。他方、部活のランニングでメンバーに声援を送っている人もいる。駄弁るのも熱意を沸らせるのも、どちらも青春だ。ただ、ここまで近くに共存するのは公園という場所があってこそだろう。ファミレスには熱意が、競技場には駄弁りが馴染まない。この2つの温度差が調和して均衡していることがあるのかと、目の端に入った光景に驚いた。

 

 生まれ育った場所では、あそこまでの広さの公園がないし、小さな公園に行く人も少なかった。老人はイオンへ、子どもは家でゲームをするほうがメジャーという印象だ。ベッドタウンと田舎の中間に住むと、自然と触れ合うこともなく、街に行くことも手間で、結局はドアtoドアの生活になる。

 こんな生活では、広場の入る場所は無く、人の多様な姿よりも山から降りてきた猿の方が出会いやすいかもしれない。アレもコレも、全て各人の大切な青春だが、こんな場所が有ったら、近くに見つけていたら、世界はもっと瑞々しいものだったかもしれない。

 

 ぼーっと歩いてると、秋葉原に出ていた。駅前では20代くらいの男子たちがナンパの極意を話し、道に迷っているお婆ちゃんの横でメイドがチラシを配り、コーヒーショップの席はアダルトショップに向かって設けられている。

 同じ広場だが、こちらはこちらで別の趣がある。それは何かと考える前に砂時計の落ちる砂の一粒のように改札口へと押し出されていた。今となっては、何を考えていたのか、もう覚えていない。そんなことに拘っているのも時間の無駄である。

お祭り

 夏休みが遠い昔の話となり始める9月中頃にやって来るのは台風だが、それと時を同じくしてやってくるのは、意外にもお祭りだったりする。

 例えば茨城県の石岡のお祭りは、この前の土日などで催行されたと聞く。台風の影響などなかったのだろうか。

 

www.youtube.com

(*茨城県が県の魅力を発信するための動画サイト、いばキラTVより。映像は2015年に記録、編集されたものの様子)

 

 土浦の方の花火大会をお祭りとするならば、11月にもお祭りがあることになる。「夏祭り」という言葉が先行しているせいで「祭り=浴衣=イカ焼き=花火=夏」の等式が成り立つと思っていたが、存外そんなことはないのである。よく考えるとひな祭りは3月だし、イカ焼きは食べたことが無い。とん平焼きの方が馴染み深い。

 

 お祭りに行くのは嫌いではないが、帰りとか翌日とかを考えると煩わしく思って行かなくなるタイプだ。お祭り自体は好きだし、なんならお祭りを好きな人の方が好きなまである。そのため、祭りに行って楽しかったといった話を聞くのは好きである。

 

 何がどうだった、何処の何がどうだった。別にこれといって珍しいこともないかもしれないのに、それを楽しかったり良かったりと感じたらしいというのは、何かと面白いことだ。そのテンション自体が何かとよかったりもする。

 浴衣を着ない、または意地で浴衣を着る祭りがあるかもしれなが、まだまだ祭りの季節はこれからである。是非ともテンション上げて報告を頼みたい。

 

 先日、ライブに行った友人や旅行に行った友人の話を聞くのが何かと楽しく、過程の手間なりをも楽しめるならば、また他の色々を気にしないタチならば、そういうのに足を運んだり参加することもあったのかと思った。

 が、何より知り合いが楽しそうでよかったと思いつつ、片方からは賞味期限の関係でお土産を貰いそびれ、もう片方からは安くないお土産代をしっかり集金されそうなので、そこに関してだけ頬を膨らませている。

好きなものと感想と

 もしかしたら繰り言になっているかもしれないが、私はこれまで、特に小学生の後半くらいから、可能な限り自分の好き嫌いや行動についてなど、言葉や記録を残さないように努めてきた。何故と言われると、自分個人の問題意識というか疑問というかそんなものがあったのである。現に私のSNSアカウントを見てくれれば分かるだろうが、自分の画像が基本的にはなく、主にいつでもどこでも誰でも考えられるものを投稿しており、現在性や場所性のある投稿は基本的にしていない。私と写真を撮ったことがある人も、その回数を考えてみると、現代の若者かと言われるほど少ないはずである。

 処世では、何をしたかや、何が好きか/何をヘイトしているか、何がしたいかが問われる世の中であり、それに上手く答えてなぁなぁにやっていくことが望ましい。また、そんなものを商品として並べておくのがSNS時代であるし、少なくともそれが当代のコミュニケーションの一部である。そんなことを空気から分かっていたが、結果としてしなかった。先の疑問の方が勝っていたのである。そんなわけで今いるところに流れついている。

 大体それにカタが付いたというか、どうでもよくなったというか、体力的にそんなことに気を張ることが出来なくなったというか、どれかは御想像にお任せするとして、兎に角それが終わったのである。

 

 この段階になると、好きなものの範囲を広げてみたり、色々と好きなものを話してみてもいいのだなと思いはじめている。やり残したことである。そして、一体何を好いているのかとか、何を読んでどう感じているのか、的な話をしてもいいんじゃないかなとも。それらも、会話においては処世的な方向のネタとしての域で使用されて終わるのが屡々だが、折角のブログなので、今更だけれどこれらについて書くのもアリかもと考えている。残念ながら色々なことについての言葉を十分に読み聞き、また書き語り慣れていないため、不十分な表現・感想になるが、自分は批評家ではないので、よく考えればそのレベルは求められない。「いいよね」くらいしか言えないけれど、共感的なものを書くことがあるかもしれない。

 飯を食わせても大体なんでもパクパク口に運んでいるし、大抵の世の娯楽には近づかないようにしているし、何かをしても楽しんでいるのかいないのかも分からない、まぁ取り付く島もない人間に見えたかもしれないが、そんな時に少しずつでも体に蓄えてきた繊維で小さな布を折るのもいいだろう。

 勿論、ヘイトに依拠したものを書いてもよいのだが、そんなものを書いても自分の幸福を助長する結果にはならない(なったとしてもそれは悪しき形でだろう)し、もっと自分の価値観をブラッシュアップする方が、そしてそれを試す方がよっぽど健康的である。そして、何よりヘイトを軸にしたものよりも、そっちの方が読むほうも楽しいだろうと私は感じている。ヘイトや何かの欠点を剔出することによって自らの優位性を保とうとするのは、しばしばしてしまいがちだが、最近は自己を暴力的に扱うことに等しいと思っている。

 

 そんなことも相まって、今まで棚上げしていた処世の方に生き方を振ることになるだろうなと思うが、ここにきているような友人・知人やまた流れ着いたひとには、今まで通りの話を今まで通りするだろうから、残念がるか安心するかしていただければ幸いである。

 要するに、これからは自分の価値的なものをより明示的に書くものがあるかもしれないということと、多少は読む人のことも考えますということ、そしてこれからもよろしくということを言いたかったのである。端的にそれを言うならTwitterでも足りるじゃないかと思うだろうが、生来の捻くれ者であり、ニュアンスを伝えたいんだという言い訳から、山鳥の尾よりも長々と書いているので、御愛嬌とでも思ってほしい。

 そんなわけでこれからもご愛顧いただければ、心の底から嬉しい。