今更抄

「今更でしょ」な話を今更

どうでもいい感想

 国立国会図書館の東京館に行ってきて、色々としていたらこのザマ(月曜更新ではなくなった)である。

 行ってきてどうだったかと聞かれたので、「地下一階にむかーしながらの理容室があって惹かれた」と答えておいた。きっと「申請して資料を持ってきてもらうから手間だった」とか「大きかったよ~」とか答えるのがイイんだろうなとは思っているんだけれど、知り合いにはこんなことを言ってしまう。

 いや、でもさ、暗い地下に、手書きの料金表が掛かった床屋だけが(利用者立ち入り可能域内に)あるって面白くない? ここで切ったら髪型どうなるんだろうとか、思わずにはいられないじゃない。

 

 世間でもてはやされている(かは知らないが)クリティカルシンキングなるものがある。クリティカルって言葉から本質的な考えと思っていたが、クリティークはすなわち「批評」なのだから批評的思考な気がしてきたが、まぁどうでもいい。

 「本質」はとても大切なことだが、物にあたった人と折角話す機会があるならば「本質」といったぜい肉をそぎ落としたものでは無く、ぜい肉そのものについて聞いてみたいなと思うのである。

 

 「この映画見た?」とか「面白かった?」と言われると、軽い毛づくろいとしての言葉が普通だから、「見た見た、面白かったよ。どわーって感じ」とか「めっちゃ格好良かった」と言っていれば安牌だ。ホラーを見て、前情報が怖いものならば、「怖い」と言っていれば安泰というのと同じである。

 もし、ガチのフレンズとの会話で、「本質」の話をしようとしても、本質らしいの話をしているものをパッチワークしているだけだし、それの強度を高めようにも、かなりの労力が必要であったり、まぁ高める必要がないものだってある。

 だからこそ贅肉の話なのである。贅肉の話は、非常にどうでもいいが、個々人で見ているものが違ったりするから面白い。むしろ、体験したから贅肉が話せるわけだ。

 本質は語られまくっているせいで見ていなくても、ある程度話せるのである。私たちは読んで/見ていなくても「笠智衆が~」とか「プラトンが~」とか「ジョニー・デップが」とか「もりななこが~」とか「松本潤が~」とか「ボーヴォワールが~」とか「デヴィッド・ボウイが~」とか訳知り顔で言えるわけである。

 

 「本質」でグルーヴするのもいいが、私としては相手が何を見たかということの方が気になる。折角ならば相手の見ているものが何かということの方が、聞いていて面白いのである。

 

 いつか友人に映画を貸した際に「途中に出てくるババァが良かった」と言われたが、正直私はババァが居たかどうか忘れていた。確実に脇役だ。

 そのババァを探してみていると、まぁ映画の見方が変わってしまうのである。「何だったんだアイツ」となるわけで、このインパクトを経た後だと、語られている「本質」なんて些細なことだったんだなと思うことも、ないではない。いや、あまりにも些末なこともあるけれど。

 このような裂け目こそが現実を露呈させる云々といった言説があるが、うんなことはどうでもいいのだ。「本質」となり得ないからこそ、くだらなくて、そのうえ個性的で楽しい。

 知り合いがどんな人かと言われて「○○な人だよ」と簡単に言うことが出来るし、大体そういうことにしているのだけれど、やはり「爪が円くってさ」とか「青色が似合ってさ」とか、そんなことの方がどうにもその人らしいなと思うこともあるのである。

 

 

 大体そんな常識的でない事を言われると「いや、○○から始めるか!?」とかツッコミを入れてしまうが、なんだかんだでそんな話の方が好きなので、私と会うことがあったら是非ともそんな話もいとわずにしてほしいなと思うのである。

 ま、細かい話をすればするほど「知らない」とか「覚えてない」とか「分からない」と言わざるを得ないこともあるが、それはそれで面白いではないか。感想ならば、適当でいいのだし。そんな時間が楽しいのだ。