今更抄

「今更でしょ」な話を今更

ダジャレ

 幼少期に多くの人がダジャレに一度はハマると思うが、なぜか大人になってもう一度ハマってしまう人がいる。どうしてダジャレなんて言うのかなと思っていたが、言葉の意味よりも音を重視して使う=言葉を言葉として使わないことがダジャレの要素であることを考えると色々と思うことが出てきた。

 

 まず、ダジャレに辟易とするのはダジャレを言うことで、相手と築いていく会話のフィールドから逸脱することへのシグナルとなるからであろう。誰だって会話のキャッチボールをしたいものだが、急にすっぽ投げることをしてしまうことはしばしばで、それをしない人やいいところに投げてくる人が会話の名人となる。それに対して、ダジャレを意図的に言う人は、ある意味で悪意を持ってボールをすっぽ投げる人のようなものである。言いたいから言っているだけであったり、タイミングが合っていれば、それなりに寛容に扱われるのは、大体その遠投を取りに行かせる必要を強いないからではないか。

 

 次に、ダジャレを言いたくなる理由についてだけれど、言葉の方に慣れ過ぎたためであるように思えてきた。人は道具を使い始めた直後は色々と覚束ないが、使い慣れてしまうと遊び始める。この遊びの感覚はだれしも覚えがあるだろうが、それと並行して慣れたものを無暗に使いたくなる感覚もある。言葉を使っていくと、文字であれば意味もなく現代において常用とされていない漢字の当て方をしたり、やたらと小難しい言葉を使用し始めるなんてことがある。それが音声の場合では、字形でなく、音形で現れてきてしまうがために、このようなことをしたくなるのかなと思ってしまう。

 

 このような、使い慣れてしまい、不必要な使い方をすることに対して、私たちは何かと気を付けた方がいいように、何となく思っている。それはスマホの使用時間云々の時点で、賢い皆さんは察していることだろう。私も一応SNS等の使用に関しては気を付けているのだが、いつの間にか数字とか言葉とか、感情とか、そのような道具について注意を払っていなかったなと気が付いたのであった。数字しか見ていない・数字先行で行動指針を出してしまうことや、理論を先行させて物に至ることを忘れる・言葉の整合性だけを望んでしまうこと、感情に支配されてしまう・感情を無視してしまうこと、そんなことは存外多い。

 勿論、目的を理解して数字を取り出して操ることが出来れば有益だし、理論を徹底することで新しく有用な仕組みが生まれることもあるし、感情を深く感じて共有することを通して生きる喜びを感じることも否定できない。いや、否定なんてしてしまうと大変バランスが悪くなってしまうため、否定をするべきではないだろう。

 

 しかし、やはりこのような有用なものでも、行き過ぎた場合はやはりダジャレみたいなものであるから、そんな事をしないようにしたいなと思うが、既にそんなことをいくらかしているのは事実であるので、どの面下げて言っているのか。もはや自分でも分からない。

 今更だけど、「へへっ、すみません」と思いながら、そんなリテラシーを考えつつ外に出ていよう。

お城

 お城に冠する基礎知識が何かさえも分からないズブの素人だが、城跡や石垣には親近感がある。石垣は力強く剛健な見た目をしているが、上は意外に細くてゴツゴツしているためあんまり足場がよくないというギャップがいい。

 

 昔住んでいたところの近くには城跡があった。立派な天守閣が再建されて、なんてことをする場所でないから、石垣だけがポツンと立っている。そんな感じだ。

 あの山の上に城があったらしいと連れて行かれた時、「なんだ、何も残ったないじゃないか」と大層時間の無駄に感じていたが実に惜しいことをした。お城といえば天守閣と思っていたのだ。

 有名な戦いでもなければ有名な武将が出てくることもなく、読みやすい書物や分かりやすく語ってくれる人などのリソースへのアクセスが無かったのも痛かった。そもそも住んでいた場所について、Wikipediaを見ても「宿場として栄えたが面影はない」的な意味合いの短文で終わる程度の場所なので、そんな資料があったかは今となっては分からないが。

 ただ、あの地方に豊臣秀吉が来ていたり、関ヶ原の戦い関連で戦場になっていたりしたらしいことを知って、感じ入っている自分がいる。あの土地もそんな歴史の舞台であって、そこを生き延びた人がいたのだろうと今更ながら思いを馳せてみると、なぜか愛着が湧く。

 

 もう1つ、別の場所に住んでいた時、ここにも馴染み深い城がある。商店街と幹線道路の間に水を張った濠が現れ、本丸の石垣が島のように浮かんでいる。そして、ここはこれまた石垣くらいしか城の跡はない。この城ついての情報を見ると、どうやらある武将の設計であり、かつ力作らしい。1人の武将が、それも江戸時代に造れる城の数なんて片手で足りそうなイメージである。もしかしたら最初で最後の築城だったのかもしれない。

 そんな力作の天守閣は雷で早々に消失し、再建されることはなかったそうだが、この欠如感は趣深い。一度天守を見てみたいと思わせてくれる。そして「規模感に合ってない天守閣w」的な評価が資料として残っているらしいのもポイントが高く、それが無いからこそ私がそこを気に入った、という可能性もある。いずれにしても無いからこそ色々考えて、気に入っているのである。

 

 ツンと澄まして置かれたままの石垣も、色々と歴史があって、肌理の違いと息遣いがある。夏の暑さにふれると、今よりもっと不器用だった10代前半あたりに、部活の一環で石垣に登った時にたまたま見た夕日を思い出す。

マスク

 最近部屋の片付けをしているのだが、俗に言う安部のマスクが出てきてしまった。さっさと捨てておけばよかったなぁと思いつつ、遺品みたいな感じになってしまったので一体どうしたもんか。

 

 断捨離が流行っていたのは昔の話だと思っているが、大体こういう「なんとなく捨てたらいけないと感じているもの」を思い切って捨てるということこそが断捨離的な動きなはずだ。

 

 マスクに限らずなにかと溜め込んでしまう方なので、どうでもよいものを随分と持ってしまっている。手放せばいいと思っているのだけれど、撮った写真もデジタルながら紛失していたり、繋がりが切れて話すことがない思い出があったりする。

 この類の思い出の唯一の友は物であるなと思うので捨てられないのだが、とりあえずこのマスクはさっさと手放そう。

夏映え

 夏の足音は冬のものより小気味いい。夏の似合う人間ではないが、実は一番好きな季節なのではないかと最近思い始めている。

 「夏」に対する世間でのイメージは自由・楽しさ・活発さといったものである。レジャーとしては 海や山など自然に親しむこともあれば、健在の如何を問わずに先祖になづむこともあると、都市社会型の日常生活がもつ桎梏から離れる時期と言って過言ではなかろう。

 私はどちらかというと鬱陶しい人であろうから、秋や冬と思われているか、もっと話したことのある人は全部の季節が好き/そもそも季節に好き嫌いがないと思われているのではないだろうか。大体何でも楽しむだけなので、間違ってはいない。ただ、特に好きなら夏かもしれないという話だ。

 

 夏は暑すぎる点を除けば大体見栄えがイイ。植物の葉は照り映え、雲はメリハリが効いている。今年の夏はスコールや台風がひどくない事を願うだけだが、程度がほど良ければ雨だって気持ちが良い。優しい光を湛える月が私たちの目を癒してくれるように、音で肌で匂いで包み込んでくれる雨も好きだ。

 

 泳ぐ泳がないにかかわらず、海は好きである。今年は夏に海に行きたい。なんだかんだで、海の真横に住んでいたことがあり、海から見える空の広さが好きで偶に見たくなる。内海にいたせいで向いに島がある景色に親近感を抱くが、水平線を見るのだって悪くない。

 今年の夏は海でパラソルを立てて読書でもしよう。波を打ちに行こう。

 

 夏のいいところは影が濃くなることにある。雲のメリハリ、葉の照り映えも影の濃さが噛んでいる。「影がある」というと悪いことのように思うかもしれないが、現象的に見れば「そこに居る/在る」という明確な証左こそが影なのだ。そこには見えるような光があり、また「それ」があり、それを支える地面がある。そして、そんな状況に身を置いて、初めて知れる影もあり、影からこそ存在を知れる何かがある。

 明確なる影を見ることもできるのは夏であり、また影の方から光を見ることが出来るのも夏である。日影に座ってジーっと外を見つめる楽しみも、冬の激しさを欠いた日光の元ではできない楽しみもある。そして、外が楽しそうに見えるのも大体は夏である。

 

 夏は体験の季節という人がいる。それは正しい。体験の夏である。海に行き山に行き、街に行き田舎に行き恋人の家に行き、球磨川だか天の川だかを見て、川下りだろうが天下りだろうが、なんでも体験してみればいいと思う。して良いかどうかの判断はご自分で。

 一方で、日陰から目が痛くならない程度に外を見つめて楽しむのも、見えななったものに触れられるのも夏なのである。観察の夏、こちらについてもお暇があればお楽しみいただきたい。

 

 非常に目を使うかもしれないが、夏の夜はきっとそれを癒してくれるくらい好いものでもある。それを信じて楽しもうじゃないか。

 夏はなによりも影映えの季節なのである。

エスカレーター

 「モンブランってドルチェがあるが、最近は茶黒い色のものが多いでモンテネグロとでも称した方がイイのではないか」と、わけの分からないことを言ったことがある。人のアイデンティティたる国の名前を(一応)ジョークで料理の名に使うなんて思うかもしれないが、台湾まぜそばトルコライスもあるし、何より若さ溢れる時期の話なのでご寛恕願いたい。当時の相手の方は非常に気に入ってくれていたが、今考えてもあの人が稀有い感性をしてくれていると思うのでやはり好きな人に入る。

 

 上記のような小言っぽいどうでもよいことを考える癖がある。上記の思考は簡単で、言葉を「文字通り・原義通り」に捉えて、現状とリテラルの齟齬を見つけ、その状況が原義通り・文字通りになるようにするにはこう言う必要があるのではないかと提案するだけの簡単3ステップで完成する。

 言葉は文字通り・原義通りにのみ使われるわけでない。日常の積み重ねで派生し、文字・原義とかけ離れることなんて茶飯事であり、文字的なところを社会的なところから切り離すことなんて、スコレーのある人のすることである。スコスコ。

 しかしこれは、実践においても理想論を振りかざし続ける人や「あるべき」を人に小言で言い続ける人、また理想と現実の齟齬に悩まされる思春期の人が絶叫するところと形の上では同じである。相手が返答しづらいという欠点はあるが、少なくともそんな嫌なものや面倒なことにはならないように、こんなショーもないことを言いたいなと思っている。

 

 先日もこんな思考方法に則って考えていて、「エスカレーターは、escalate と通じているのだから、『エスカレーターの下り』は『段々と上昇していくものの下り』という意味になるからヘンテコではないか」といった話を思いついた。ここで先んじて説明していた「こうする必要」、すなわち escalate の齟齬を解消する語彙を不勉強ゆえに知らないことに気づいた。

 

ejje.weblio.jp (最終閲覧:2022年7月18日)

 

 Weblio英和辞書で対義語でも調べるかと思ったら、そんな小言がどうでもよくなるような話を見つけた*1。どうやら escalate という語は escalator からの逆成、つまり "escalator" からの連想で "escalate" という動詞が造語されたということが書いてあった。動詞に -er や -or を付けて名詞を作っているという思い込みを持っていたが、これは逆に動いているのは、考えれば不自然ではないものの、やはり日常動詞として使っているものがこのような成立過程を持っていることは面白い。

 

 ではエスカレーターが何から来ているのかというと、西洋のあるあるのラテン語からの造語らしい。もしかしたらラテン語から考えても小言が言えるかもしれない。そういうわけでラテン語の由来も見てみよう。

 

 ē(≒ex;from, out of)+ scāla(梯子,複数形の scālae で階段) + -or 

 

 と「梯子(階段)のヤベーヤツ」といった意味合いらしい。スゲー梯子なら登っても降りてもどっちでもいいなと思うのであった。

 しかし、scāla を語源へと遡ると「登る」とか「ジャンプ」という意味合いに通じている様子なので、やっぱり「下りエスカレーター」は「上るものの下り」というUターン的な話をしている気がしないでもない。これはやはり小言としてアリではないか。

 

 もうちょっと雑でもいいから調べてみるかと、Wikipedia を読むとこんなことが書いてあった。

"Escalator"という語は元々、アメリカ合衆国の企業オーチス・エレベーター社(Otis Elevator Company)の登録商標で、商品名である。しかし、当時この自動式階段を表す適当な語句が他に無く、一般に「エスカレーター」と呼ばれたため、普通名称化した経緯がある。オーチス・エレベーター社では既に商標権を放棄している

 

出典:

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC (最終閲覧:2022年7月18日)

 つまり、エレベーターは自動階段の商標であり、ステープラーにおけるホッチキス的な関係性だったらしい。

 商品名ゆえに、小悪魔コスプレをしたキューピー人形もキューピー人形であるように、機械名称がエスカレーターなので、上りも下りも「エスカレーター」であって下りのエスカレーターに何の疑問もさしはさむ余地はない。それゆえの「上りエスカレーター」と「下りエスカレーター」の言い分けである。

 というより、エスカレーターがそもそも普通名詞であり、それを今回はそういう思考方法でわざとずらしていたのは今更の話である。

 

 いや、でもそれならエレベーターはと言いたくなるが、際限が無くなるので今回はここで筆を擱くことにする。エレベーターは普通名詞だ。

*1:対義語は本題から逸れるのでこちらに書くが、関連語や派生語として書かれている de-escalate (緩和)が対義語のようである。

素直さ

 友人の旅行、というかアニメの聖地巡礼について行った。言い出しっぺは私だし、焚き付けたのも私だが、行くと宣言して私をカンパニーにすると言ったのはあっちだった気がするので「喜んでついて行った」ということにさせてもらいたい。

 ちなみに当該アニメを薦めた、いや半ば無理やりに見せてプレゼンして沼らせたのも私なので、諸悪の根源は私なのである。正直、私もここまであっちがハマるとは持ってなかった。

 友人氏を見ていると「おうおう、楽しそうだな」という感じだったが、そう言っている私が楽しくなかったのかと言われると、そんなこともない。むしろ、ここしばらくでは屈指の楽しさであった。多分1人では聖地巡礼に足を運ぶことはなかっただろうことも含め、同伴にご指名いただき有難い限りである。

 いつものことながら「お前、楽しんでいるのか」と的なことを聞かれたが、いまいち顔や行動に出ないタチなのか、出していないタチなので許してほしい。

 

 大学生の時代に友人らの家に行ったときのことを思い返すと、一人暮らしだったこともあり、大体みんな自分の好きなものを大々的に置いていたように思う。お酒が好きな人はたくさんのお酒を置いていたし、推してるアイドルの大きなポスターを張っている人もいれば、プラモデルを飾る人、楽器を飾っていた。好きなものを押し出している部屋や友人のそんな姿勢はなんだかんだ好きなので、ライフステージが変化するとしてもそのままでいてほしいな、なんて思っている。

 翻って私の部屋を見ると、小さい頃から好きだった特撮関連のものや小学校から好きだったゲーム、中学から偶にパチ組していたプラモ、高校あたりでハマったアニメや映画類やジグソーパズル、そんなものを置いたり制作していないなと思う。部屋を見るとプラモが一体が置いてあったり、キャラクターのブロマイドが百均の写真立に入れられていたりしているし、ないわけじゃない。しかし、友人たちにあるような「これを見ろ!」って感じや、「これが好きなんよね」って感じが自分ながらどうにも感じられない。最推しというわけではないが(そもそも「推し」という感覚が分かってないけど)もっとどうにかならんのかなぁと今更ながら考えている。

 

 別の友人から勧められた『冴えない彼女の育てかた』のアニメ1期を流していたが、先を知らないものの、どうにも恵以外のヒロインがあんな感じになっている要因の一つが、作中で本人たちに語らせているように「素直」になれていないことであるのは間違いがないなと思った。まぁ、創作世界においてそうなのであるから、況や現実世界をや。

 好きなものは衒いなく好きと言おうや。好きに貴賤も上下もないのだし。ないのであって欲しいし。

ブログを書こう

 別にブログでなくてもいいのだが、自分のよいと思ったこと/ものを分与できるスペースを持てるとよいなと思うのだ。SNS全盛の世を生きてきたZ世代に対しては今更なことかもしれないが、ときめいたものとか、話せるといいなという話だ。

 とは言ってもこの提案は精神衛生や自己表現/自己実現、また思考の整理や収益化といったような側面を軸に据えた提案ではない。夢への一歩というよりもむしろ、自己といったものから離れていき、外部へと流れ出してみる経験の提案ゆえにむしろ逆の発想と考えた方が近しい。

 

 一言にまとめると「利他的な行為」としての物書きとなりそうだが、「利他」を目的にした文章を書こうとは言ってない。利他は素晴らしい行為だし、もっと文化としてドネーションが根付いてくれるといいなと思っているが、そんなことをプロパゲートしたいわけではない。

 なんなら目的を排した文章、目的意識のない文章を書こうと言っている方が提案に近似している。

 文章は対象を明確にし、論点を絞ったうえで伝えたい内容にフォーカスして書いていくと説得的で効果的な文章になるというのが書き方のダイヤモンドだろう。それが出来る人が「頭の良い人」と称される属性の一部を担っていると言っても反論する人は少ないのではないだろうか。

 

 しかし、それとは違い、ただ好きなように書いて話すという、いわば素直な場所を少しずつでも形成しておくのは悪いことではないのだろうというチョッとした感覚、略してチョッ感がある。

 私たちは社会的に生きてしまう/生きざるを得ない部分があるために、発言や態度は殆どが社会と良い意味で一体化しているように感じる。感じない?

 

 このテの環境が救えないし掬えないものがある。すごく真面目に悩んでいたことなのに友人の何気ない一言で解決したり、とてもタフな問題だと思ったが外を通る若人の騒ぎ声でそんなこともないと知ったり、明確化しづらい何かがある。理想のヒロイン/ヒーローが常時理想的なわけじゃないのと似た何かだ。

 共感やトリートされるより、誰かが一笑に付してくれたら気が軽くなる予感を持つことが誰しも一度はあるだろう。太陽よりも月明かりやスターライトの優しさが好いことだってある。

 とても高尚な説が展開されていたり、先行研究を踏まえた議論が展開されていたり、ディアクロニック・シンクロニックな視点を持っていたりする記事や会話よりも、「なんかいい!」みたいな印象の羅列がめっちゃgoingしてるだけの方に惹かれることもある。エモーションの方が心にドキドキペポパポしてくるものだ。

 

 完全に運というか巡り合わせなのだけれど、そっちの方が大事な誰かにとって大事な契機だったりする。誰かに「あの時の言葉が」というフレーズから始める感謝は、大体相手にとっての意識とは違うところにあったりする。「え? あれが?」とか「どれだ……?」って顔されたりするじゃない。

 自分の観たものや読んだもの、体験したものや感じたものの中でポジティヴなものや「こういう視点や前提を持つと楽しいよ」みたいなものは言うだけ言っておくと、自分は楽しいし、もしかしたら誰かにとって何かのキッカケくらいになるかもしれない。

 もちろん直接のキッカケになるわけでなくても、遠い先で誰かの何かが繋がるための養分や間接的なキッカケになるかもしれない。

 どちらになったところで自分にとって何の利益(といっても直接的で自覚的な利益)になることなんてそうそうないんだけど、そんなことあったら嬉しいじゃん。

 そんな chase とは違う在り方に自他ともに開くことを許せれば、きっと何かは変わるだろう。

 

 表現ごとなので、拙かったり、どーでも良かったり、実力不足を実感したりもするけど、たまに自分の本意を見つけたりできるし、もしかしたら収益化できるかもしれない。やってみるだけやってみてもいいのではないかと思う。

 毎日・毎週コンスタントに書く必要なんてプロになると思う人以外には必ずしも要るわけではない。プロは名文を書く人でなく、一定の量や質を確保する技術ゆえにプロなのだ。日記だって毎日しっかり付けなければいけないものでもないように「気が向いた時に書く」とか「書ける時に書く」でいいんだ。

 

 ネガティヴなものは日記帳にでも留めておいて、ポジティヴなものの一部くらいはたまーにブログででも、もっと close になら会話ででも、還元したってバチは当たらないだろう。試みに、眠りの森へと行くのをほんの少し遅らせて、そんな時間を持つのはどうだろう。

 楽しい時間を過ごさせてくれた友に「楽しかった」と本人や周りに還元するように、面白がらせてくれた何かに対しても還元するのは悪くないと思うのだ。

 ありきたりな言葉しか紡げなくても、そもそもありきたりだから響かなくてもなんぼだし。ありきたりだからこそ響くこともあるのだし。

 こんなことは言っても、一番大切なものを分与するのはやはり難しい。自分が出来ていないにもかかわらず、こんなことを書いてしまってと苦笑いしてしまった。お詫びに最近流してるアニソンを貼っておく。

 

 

※修正履歴1:文末のリンクを楽曲「TOKIMEKI Runners 」からアルバム「TOKIMEKI Runners」へと修正しました(2022/07/04 22:10)