今更抄

「今更でしょ」な話を今更

本棚

 本棚、といっても個々人が持っている本棚についてだが、どんな本を本棚に置いているか、また、それらの本がどのように配置されているかということで、多少はその人の感性や方向性・興味関心を理解できると思っていた。

 確かに、何度も読み返す本こそを手許に置くものだろう。読んでみて、「なんかなぁ」と思った本や、一読して用が足る本はさっさと売ってしまう、なんていわれると一理ある。

 

 まだまだ部分的な理解であった。

 

 今日、自分の下宿の本棚を見たが、読んだ本はほんの数冊であると気が付いた。分かることなんて、何の整理も無く雑然と本を書棚に詰め込むという持ち主の気性が分かるだけである。

 「一読して用が足る本」ではなく、「十読して用が足る本」を5回くらい読んでいる時は本棚に収めるだろうし、「なんかなぁ」と思った本でも「後で(と言っても数年後かもしれないけれど)読む日がくるような気がするなぁ」と思った本も書棚に戻すはずである。

 なにより、私の本棚自体が「いつか読みだろう」という本と「(読んでみてわからなかったが)いつか手に取りたくなったら分かるだろう」という本、なんなら「ノリで買ったが多分読まないな、これ」という代物ばかりなのである。

 

 考えてみると、とても大切な本でも、いや大切で何度も読んだ本だからこそ、内容の大枠を覚えてしまっているほどに大切だからこそ、大切な知人に渡してしまうこともある。そんなときに、何度も読んだ本だからボロですみませんと言うか、中古で安く手に入れたからボロでゴメンネと言って渡すかは人に依るだろうが、まぁそれは別の話である。中古で手に入れてボロだが大切な本だってあるが、それもやっぱり別の話だ。

 

 「聖典なんて暗記してるものでしょ」みたいな人だっている(といっても、それはラビとかそんな職種であるかもしれないけれど)と聞いたことがある。記憶力が悪い私としてはそんなことが出来るものかと思うが、それが商売の第一条件なのだから大体できるんだろう。その人の本棚には聖典があるし、その場所はきっと信仰的な意味合いから一等地を割いているだろうが、正直に言うと失くしても困らないのかもしれない。

 もしかしたら、「本そのものはただの物質であり内容が大切なのだ」というロジックで本という物質をそれほど重要視しない人だっていうるのかなぁと思うが、これについては私の妄想である。

 

 本や蔵書に対する個々人の基本的な態度の違いを考えると、色々と決定的なところは違うだろう。「本棚って〇〇なんですね」と知識人ぶって言うこともあるが、それに外れた在り方は数え切れない。大切なものこそ持たない人だっているかもしれないし、大切だからこそ大切な位置に置いている人もいる。知らないから置けないという事態と、知っているが置かないという事態は違う。

 

 知っているが置けない大切なものは「記憶の中の本」であったりする。

 その記憶の中の本は、物質として実在している本とは内容が違い、ページが大きく省略されていたり、他の人が知り得ないようなページが挿入されていたりするものだ。外から覗うには相当の努力が必要だが、残念なことに、それを口に出すことをする人をあまり見ない。

 一番大切な記憶や言葉こそ、その個人性によって誰とも共有を出来ないのが世の常なのかもしれない。

 

 多少はその人の感性やら方向性を理解するために、本棚をみることは有用だろうとは思う。しかし、よくてアタリ程度であろうし、もしかしたら全部が誘導のためのフェイクかもしれない。

 本棚の中身から人をまるっと帰納することは容易ではないなぁと思ったのであった。

 

 私自身は色々と買い溜めているが、これらの本が好きだからこんな人間であると思われてしまうと、本に対して申し訳が無い。一応、間々にピンク小説や適当な古本というノイズを入れているものの、誰に宛てるともない言い訳の雑文に時間を費やしてしまった梅雨明けだった。

"感"

 ドラマの『孤独のグルメ』を流していると何となく気持ちがいい。男性がモノローグで色々と言いながら豪快に食べる姿は見ていて気持ちがいい。

 

 食事をするという時に、味だけでなく見た目や食器、テーブル・部屋の飾りつけといったものも含めて食事だということはみんな知っている。それも含めて統一感や気持ちの良さがあると食べてて楽しいことが多い*1

 部屋などの環境が味、というか楽しさに繋がるのであれば、誰と食べるかということもかなり重要なファクターとなる、のは今更だろう。

 食事をしに行くと、学生から老人がグループで食事をしていることを見ない日はそうそうない。むしろ、1人の食事は味気ないものであるという言説の方がよく風に乗ってる気がする。

 味そのものは変化しなくても、感じ方が違うことはしばしばあることだ。

 

 こう考えると、1人で食事する『孤独のグルメ』の井之頭五郎と風説との間に深いギャップがあるわけだが、ここを楽しんでいるような気がする。

 このギャップそのものを楽しむだけでなく、色々と妄想してみよう。「なぜ五郎ちゃんは1人で食事を楽しんでいるのだろうか?」

 これからは様々な回答ができる。「五郎ちゃんは飯を食べるのが好きなのだ」とか「五郎ちゃんは他人に配慮せずにご飯を食べることに幸福を感じている」とか「腹一杯食える楽しいじゃん」といった答えがあろう。可愛げのないものだと「フィクションだから」とも言われそうだ。

 「五郎ちゃんは飯を食べるのが好きだから」を語ると「1人で食う時に味がしないという人は飯を食う行為そのものを楽しんでない/楽しみ方がわからないんじゃないか」と言った話に繋がるし、「他人への配慮」を語ると「食事の量や内容で和を乱すこと、また時間や用事を考慮して食事を摂るというテーゼを持っているんだな」みたいなことが分かってくる。

 

 ここで1つ「孤独」について考えてみよう。独りぼっちは寂しいものだが、私の見る限りでは五郎ちゃんにはそれが感じられない。

 「好きなことをしている求道の状態では、独りぼっちも寂しくない」みたいな好きなことヤクザ的思考も嫌いではないが、ここでは別の方向からアプローチしてみたい。

 

 哲学者の三木清が書いた『人生論ノート』*2という書物の中に「孤独について」という節がある。パスカルの引用から始まり、以下のように本編は始まる。

 

孤独が恐しいのは、孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の条件によってである。

出典:三木清『人生論ノート』

 

 ここから先ほどの「好きなことをしているかいないかの違い」が孤独の条件に当てはまりそうなものだが、もう少し先を読んでみよう。

 

孤独というのは独居のことではない。独居は孤独の一つの条件に過ぎず、しかもその外的な条件である。むしろひとは孤独を逃れるために独居しさえするのである。

出典:前掲書

 

 三木は「孤独」の外的な条件、つまり1人でいるか複数人でいるかという物理的な状況が「孤独」の状況ではないと言っている。これこそが五郎ちゃんを見て私が「孤独」でないと思った所以だ。物理的な形では孤独であるものの、形以上に「孤独」の本質的な条件があるはずと考えているらしい。

 

孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。

出典:前掲書

 

 すなわち、他の存在と場を共有しておきながら、このような「間」、言い換えるならば繋がりや一体感が無いことが孤独なのだと言っているっぽいのだ。

 

 これまでの流れをガヴァッと要約すると「孤独、というか『寂しい』って独りで居る時に思うけどさ、みんなの中にいた時の方がもっと寂しいって思うじゃんよ」的な話だろう。

 ここから先、三木が語っていることは難しくてよく分からないので、どのように話を進めていくのかは個々人で読んでもらうとして、先の要約の問いから話を続けよう。

 

 一般に言う孤独を形的・状況的なものとして「独りぼっち」であるとするならば、「みんなと一緒に居る方が寂しいのよね」というのは形的には違うが精神的にそうなのだから「孤独感」と言うことにしておきたい。

 この孤独感というものは大変に迷惑な代物で、形の上では集っているにも関わらず、感覚的に集まっている感じがしないという不和を感じさせる。いやむしろ、ひどい時には「みんな」が楽しそうにしている一方で、「わたし」はその輪に入れていないという引け目を感じかねない代物だ。

 この孤独感が生じる人と生じない人がいるし、これが生まれるのは自然の産物であろうから良し悪しは言えないのだけれど、私たちが生きている以上、誰かと本来的に1つになることはできない。そのため、もしも実感したら連れ添っていく必要のあるものになる。連れ添いを斃すと刑が待つように、この連れ添いも斃そうとすると刑が待っている、かもしれない。

 

 ここで、五郎ちゃんの話に戻ろう。

 三木清はこんなことを言っている。

孤独を味うために、西洋人なら街に出るであろう。ところが東洋人は自然の中に入った。彼等には自然が社会の如きものであったのである。東洋人に社会意識がないというのは、彼等には人間と自然とが対立的に考えられないためである。

出典:前掲書

 この話を読むと他者(≠他人)として物体も含まれることが察せられる。五郎ちゃんは人との関係のうえでは孤独ながらも、場を共有していると感じている食べ物とは繋がりを保ち、かつそれを食べている。それはある種の「孤独感」に対する最強の解消方法であり、単話という枠内しか見れない私たちからすると孤独という状況の完全解消を行なっているように見えもする。

 私たちは孤独に限らず、何かにつけて100%を得られないから「〇〇感」に苛む*3。それゆえ知足を求められる。

 しかし一方でやはり100%を求めてしまうから、そんな感じに見える五郎ちゃんを観てしまう。そんな気がする。

 

 とまぁ、胡乱な論を紡いできたが、そんな面倒なことはさておいて、上手いものが出てきて食っているのがいいなぁとか、五郎ちゃんのリアクションがいいよね、でよいのである。

 え、「『好きなもの』が『対象』であり、それとの一体感があるから孤独感がないのであって、やはり好きなことをしてるから孤独じゃないんじゃないか?」だって? そう思いたいなら、そう思っておけばいいんじゃない?

 書ききった私にはもう考える気力がない。腹が、減った、のだ。

 



*1:美味いだけが飯の良さではないという側面もあり、微妙に不味くて汚い飯屋というのがある面では最高だったりすることもある。味があるっえやつだ。また、栄養補給やら医食同源だとか言いたくなる人もいるだろうけど、今回は統一感あるとステキだし美味しいねってことで勘弁してよ、ね。

*2:今回は青空文庫から引用した。確認したい人は以下のURLから確認してほしい。まぁWebだし、引用ページとか指定しないけど、気になるならページ内検索してね。

https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/1914_63525.html (最終閲覧2022/06/18)

*3:孤独と真逆である交際があるからこそ「孤独感」という孤独の影に悩まされるように、対義語の影に悩まされるのかもしれない。ほら、満足してると「不満感」に悩まされたりしない? 幸福の中に幸福感を見出せるといいんだけど、赤の中からオレンジを見つけるような作業だし、補色である緑の方が見つけやすいとかあるのかもしれない。

どうでもいい感想

 国立国会図書館の東京館に行ってきて、色々としていたらこのザマ(月曜更新ではなくなった)である。

 行ってきてどうだったかと聞かれたので、「地下一階にむかーしながらの理容室があって惹かれた」と答えておいた。きっと「申請して資料を持ってきてもらうから手間だった」とか「大きかったよ~」とか答えるのがイイんだろうなとは思っているんだけれど、知り合いにはこんなことを言ってしまう。

 いや、でもさ、暗い地下に、手書きの料金表が掛かった床屋だけが(利用者立ち入り可能域内に)あるって面白くない? ここで切ったら髪型どうなるんだろうとか、思わずにはいられないじゃない。

 

 世間でもてはやされている(かは知らないが)クリティカルシンキングなるものがある。クリティカルって言葉から本質的な考えと思っていたが、クリティークはすなわち「批評」なのだから批評的思考な気がしてきたが、まぁどうでもいい。

 「本質」はとても大切なことだが、物にあたった人と折角話す機会があるならば「本質」といったぜい肉をそぎ落としたものでは無く、ぜい肉そのものについて聞いてみたいなと思うのである。

 

 「この映画見た?」とか「面白かった?」と言われると、軽い毛づくろいとしての言葉が普通だから、「見た見た、面白かったよ。どわーって感じ」とか「めっちゃ格好良かった」と言っていれば安牌だ。ホラーを見て、前情報が怖いものならば、「怖い」と言っていれば安泰というのと同じである。

 もし、ガチのフレンズとの会話で、「本質」の話をしようとしても、本質らしいの話をしているものをパッチワークしているだけだし、それの強度を高めようにも、かなりの労力が必要であったり、まぁ高める必要がないものだってある。

 だからこそ贅肉の話なのである。贅肉の話は、非常にどうでもいいが、個々人で見ているものが違ったりするから面白い。むしろ、体験したから贅肉が話せるわけだ。

 本質は語られまくっているせいで見ていなくても、ある程度話せるのである。私たちは読んで/見ていなくても「笠智衆が~」とか「プラトンが~」とか「ジョニー・デップが」とか「もりななこが~」とか「松本潤が~」とか「ボーヴォワールが~」とか「デヴィッド・ボウイが~」とか訳知り顔で言えるわけである。

 

 「本質」でグルーヴするのもいいが、私としては相手が何を見たかということの方が気になる。折角ならば相手の見ているものが何かということの方が、聞いていて面白いのである。

 

 いつか友人に映画を貸した際に「途中に出てくるババァが良かった」と言われたが、正直私はババァが居たかどうか忘れていた。確実に脇役だ。

 そのババァを探してみていると、まぁ映画の見方が変わってしまうのである。「何だったんだアイツ」となるわけで、このインパクトを経た後だと、語られている「本質」なんて些細なことだったんだなと思うことも、ないではない。いや、あまりにも些末なこともあるけれど。

 このような裂け目こそが現実を露呈させる云々といった言説があるが、うんなことはどうでもいいのだ。「本質」となり得ないからこそ、くだらなくて、そのうえ個性的で楽しい。

 知り合いがどんな人かと言われて「○○な人だよ」と簡単に言うことが出来るし、大体そういうことにしているのだけれど、やはり「爪が円くってさ」とか「青色が似合ってさ」とか、そんなことの方がどうにもその人らしいなと思うこともあるのである。

 

 

 大体そんな常識的でない事を言われると「いや、○○から始めるか!?」とかツッコミを入れてしまうが、なんだかんだでそんな話の方が好きなので、私と会うことがあったら是非ともそんな話もいとわずにしてほしいなと思うのである。

 ま、細かい話をすればするほど「知らない」とか「覚えてない」とか「分からない」と言わざるを得ないこともあるが、それはそれで面白いではないか。感想ならば、適当でいいのだし。そんな時間が楽しいのだ。

別れ

 先週は月曜に更新をできなかったが、これは面倒なお題をどうクリアするか考えてていたらこうなってしまったのだった。最近ちょっとやっていることで、「別れ」というお題が出された。これが非常に難航して、いつもならば大体2日を費やせば、出来は不問に付すとしても、まあ仕方がないと思えるものが出来た。しかし、今回はどうにも手が動かず、1週間が経過してしまった。失態であり、叱咤の対象であろう。

 

 別れはさっぱり分からない。テキストに載っているヒントとしては、物理的に別れるシーンを入れることで一つの象徴的なニュアンスが出るという旨が書いてあったが、この別れ、一体どの程度のレンジがあるのかという話である。

 いやいや、そこを考えるのが創作者としてのあなたの役割でしょうと言われるとぐうの音も出ない。

 ぐぅ。失礼、腹の音である。

 しかし、みんなはどの程度の別れを想定しているのだろうか。

 

 昨日図書館で頭木弘樹著『絶望名言2』(2019年,飛鳥新社)という本を借りた。この本は、1人の作家(?)の名言を集めて云々するラジオ番組をテキスト化したもののようだが、ページをめくっていると、教科書掲載の「字のない葉書」というエッセイで見知った向田邦子氏が俎上に載っていた。

 筆者の頭木氏は向田氏の『家族熱』というテレビのシナリオから抜粋したのは以下のセリフである。

 

自分でも納得して、

キッパリ別れたつもりでいるでしょ。

思い切って遠くの土地へ行って、

新しい仕事はじめて

――昔の暮し、すっかり忘れたつもりでいるでしょ。

そうはいかないのよ。体の中に残っているのよ。

(『家族熱』大和書房)

出典:頭木弘樹著『絶望名言2』2019年,飛鳥新社(p.147)

 

 『家族熱』という作品のドラマを見たこともなければ、シナリオも読んでいない。なんなら向田は私の生まれるとうの昔にこの世を去っているそうだ。そんな関わりの薄い作品から孫引きするは良くないのだが、問題はここからの話である。「そうはいかないのよ。体の中に残っているのよ。」が何とも重く響かないだろうか?

 

 新しい環境に行って、新しい人と会って、いろんなことをしている中で、全く関係ないはずなのに昔の記憶や昔覚えた身体の動きや考え方がヒョコっとオートマチックに飛び出してくることがある。歩き方や手の上げ方、雷や雪に対する反応などからこれまでの何かが見えてしまう。また、知り合って間もない人の爪や鼻の形、言葉や考え方に、なんとなく昔の知人・友人の姿を思い出して苦笑いすることだってある。

 この昔の人達の多くとは別れた後であるし、関係性なんて最早ないに等しい人が多い。終わった関係性と言ってもいい。けれど、このように思い出したり、行為の際に意識の有無にかかわらず顔を出してくるのだから、本当に別れているのか、終わっているのだろうか。終わるなんてことがあるのか分からない。

 もしかしたら、何となく一緒にいたけれど、別れてからが本当の関係性が始まるということだってあるかもしれない。それが良いのか悪いのか、また希望なのか絶望なのかは分からないが、まぁどっちかって考える余地があるならどっちでもいいよね。

 

 こんな調子だろうから、別れるのは相当に面倒で入り組んだ出来事である。だからこそ別れるために、式を開いたり、書類を書いたり、何かを手離したりという象徴的行為を行い、心理的にも、社会的にもなるべく簡単に済ましたことにしているんだろうと思う。「これしたんだから終わりにしましょ」ってね。

 これこそが象徴ということであろうし、物事の有限化という知恵だなと感じる。

 

 出会った人々・モノの影響は数多揺曳しているのだろうから、日々の諸事に気を払いつついたいなぁと思ってはいる。ただ、どうにも先のセリフのキャラクターが正気を失う結末になったらしく、揺曳を気にしすぎるのもよくないだろう。

 まぁでも、そうだと思っているので、少しは善い言葉や善い動作を使いたいなと思うのである。できるかは知らないので努力目標だけど。

 

 そんなこんなで、しっかりした別れを表現するのは大変に骨が折れるよなと思いつつ、「別れ、別れ、別れ」とつぶやきながら散歩をし、不審者度を上げて少し早めのウェイウェイサマーしながら、アゲて適当に書き飛ばしたものを提出してしまった。

 これでお別れといきたいところだが、しっかりフィードバックがあるので、ここからが本番である。

つまらん人にはなるな

 「つまらない世を面白く」というフレーズ、詩歌に疎いので下の句を知らず、歴史に疎いので、そんなことを言われても「あっ、そうですか」と返す以外に何もないが、思えば「つまらない」から「ない」を取ったら「つまる」である。

 面白く無いことは大体捗らない、はかばかしくはいかないものだが、それが「つまる」の否定形とはこはいかに状態である。つまったら楽しいというのは万策尽きて高揚してくるということではないか。マゾヒズムが本邦には蔓延しているのだろうか。やはり不思議の国の日本なのか。

 

gogen-yurai.jp

 

 そんなこんなで、語源をネットレベルで調べると、上記のようであるらしい。これに依拠するならば、どうやら「つまる」には「納得する」「決着する」といった意味合いがあり、そこの否定形ということらしい。ふ~ん、つまり納得できるということが「つまらない」を回避する要諦らしい。この「つまる」は「最奥」とか「詮ずるところ」といった究まるニュアンスを感じる。感じるよね?

 

 しかし、分かるということが「つまる」ことの決定的な条件なのだろうか。そんな分かりってしまう事が楽しいのだろうか。

 

 数学者の岡潔と批評家の小林秀雄は、対談『人間の建設』新潮文庫,平成22)の冒頭で学問についての話をしている。

 

岡 人は極端になにかをやれば、必ず好きになるという性質を持っています。好きにならぬのがむしろ不思議です。(略)

小林 好きになることがむずかしいというのは、それはむずかしいことが好きにならなきゃいかんということでしょう。(中略)つまりやさしいことはつまらぬ、むずかしいことが面白いということが、だれにでもあります。(中略)ところが、学校というものは、むずかしいことが面白いという教育をしないのですよ。

(前掲書,pp.10-11)

 

 野球で難しい球を打つのが楽しいという小林の話を略したためか、端折り方の問題もあって噛み合っていない気がするもが、嚙み合っているかどうかなんてどうでもいいだろう。会話なんてそんなもんだ。詳しくは書物を読んでもらうとして、ザックリ言うと岡は「打ち込んだもの、好きになるよね」と言っているし、小林は「簡単なことはつまらんのであって、難しいほど面白いんだよね」と言って、まぁ「打ち込めるものがおもしろい!」ってことでグルーヴしているってことでいいと思う。

 ちなみに先の引用の末にある小林の言に対する岡の反応を略さずに書くと以下の通りである。

 

 そうですか。

(前掲書,p.11)

 

 それはそうとして、それが深かったり難しい程打ち込むことになりがちだが、それをしてしまうと楽しかったり対象が好きになるってのは私たちが日頃から体験していることだと思う。少し毛色は違うかもしれないが、「なんだよアイツ」って思っているだけでそれなりに愛着が湧くことあるじゃん。良かれあしかれ。ね。

 

 そうなるとやっぱり私たちは難しいことに対して、「つまる」ことに対して本来的にはどうも惹かれてしまうらしい。

 

 先の引用から「むずかしい」と「すき/すく」と「おもしろい」に関連がある感じがしたが、たまたま流していた『論語』の雍也の20にはこんな文章があった。

 

子曰、知之者不如好之者、好之者不知樂之者

金谷治註訳『論語』1999,岩波文庫(pp.117-118)

 

 訓読文と訳文を引用する作法が分からないので、それらは本を読んでもらうとして、先師が言うには「楽しむ人>好む人>知ってる人」ということらしい。まぁ、『論語』の全体を読まずに(だって後ろの方かったるいんだもん)ここだけを引用するのは悪いSNS 作法みたいなもんだが、その点には当然留意するとして、どうやら「楽しむ」(=「おもしろい」として扱う)と「好む」ということの間には長年の因縁があるらしい。

 

 これを、岡と小林の話とフュージョンアップしたうえで、私の恣意的な思惟を入れると以下の事が言えるのではないだろうか。

 どうやら「好む」というのは行為によって現れる状態であり、簡単にいうと結果という名詞的な感じであって、対して「楽しむ」というのは行動中で、まぁノッているとか、その知識の中を生きているというような動詞的な感じである。って言えない? 言えるよね?

 

 「好む」というのはどうにもトキメキや出会い、個人的な意義というのが行動に先行すること考えて、またそうあって欲しいと思いがちだが、これはあくまで魅了「される」瞬間を立ち止まって待っている状態と言えるのかもしれない。しかし、「好む」が行動の結果によって生じる物でもあるのならば、まぁ何となく色々と取り掛かってみる必要があるんだろうなという話になってくる。そもそも、トキメクにも体力や知識や知恵や勇気といった強さが要るから、完全に受身でトキメクことはない気がするけど。

 ま、その気が無ければ、スイスイ進む状態から急に立ち現れた艱難に打ちのめされておさらばしちゃうもんな。

 

 何かに出会って一気に変わるという、劇的な認知の変更・実存の転換というも在ってくれたら嬉しいけれど、偶には自分から魅了「されに行く」という話もあっていいじゃないか、なんて最近は思う。大切なのは心がけとか、認識とか、態度な気がするよ。うん。冒頭の句も下の句は「住みなすものは心なりけり」という感じで続くらしいし。

 

 むずかしいことに取り組んで、究めようとしている時が楽しいし、まあ対象を面白いと思える感じらしい。心も変わって世が楽しいという感じだろう。

 

 とはいっても、「つまる」というのは、排水溝のつまりのように何かの奥細いものが渋滞していることによって生じるものである。詰まりの先は必要なのだ。この深さの存在こそが究めることに繋がっていくとおもうのだけれど、特定のジャンルで体系が確立している場合には、先達たちはどうにか詰まりの先の風光を教えたり、担保したり実証する存在であってほしいし、そんな人に出会えるなら幸いだ。

 

 勿論、「つまり」は渋滞であるから「詰まり」なのであって、そこで打ち止めならば終わりなので、是非とも打ち切りは回避をしてほしい。だって、私たちの冒険はまだまだこれからだ!って感じじゃないか。

 

 あ、そうそう、そういえば「つまらん」って九州や山口の方言では標準語にはない意味を持っててね、って2000字超えてるの?

 じゃ、おしまい!

 

 

 

「名前」

 「名前」ってのは厄介だ。

 

 面倒なことは色々あるが、まず1つに名付けた人の価値観や願い・それに向かい合う態度が如実に出てくる。尊敬する人の名前から一字貰った、〇〇にはこうなってほしい、甲々になってやるといった気概のようなものを、「名前」から何の気なしに放っている。こんな思いを大腿の人は感じ取ってしまうだろう。

 これは良い事だろう。少なくとも悪いことや恥ずかしいことではない。めちゃくちゃ恥ずかしいかもしれないが、胸を張ってやるべきなんじゃなかろうか。ある種の立志であり、願掛けであり、呪(まじな)いである。人の名前だったらその人の人生で1番多く書き/口にし/呼ばれるものになるだろうから、習慣となる言葉と言っていいだろう。なるべくなら、良い習慣を付けたいじゃないか。

 

 また、「名前」は1つの姿であるから、それを知る事で対象を知ることができる。不安は紙に書き出せって、聞いたことがあると思う。あれは不安に形を与えることで負荷を減らすことだろう、正確な実験結果や研究は知らんが。自分が戦士だとして、いつ奇襲を受けるか分からない負荷と決戦の日が決まってる負荷を比べると、両者どちらもストレスフルで胃に肺に穴が開きそうだが、奇襲の方がキツい気がするでしょ?

 

 知らないより知っている方がいい。そっちの方が得である。まぁ、「得」=「よい」という等式も疑った方がいいけど。

 

 それはさておき、では「名前」が良いもの一辺倒かっていうとそんな訳がないだろう。最初に厄介って言ってるし。

 最初に言っていた「名前」と態度の話では、まず名付けた人の「これまで」がモロバレする。文脈や価値観がなーんとなく感ぜられるじゃない。宗教的な教養を感じるときや、それまでの文脈から哀感を感じるときがみんなあるだろう。どんな時でも、ヒーロー/ヒロインに昔の恋人の名前を付けたり、その文字を使うのはやめよう。な。

 未練の話は措いておいて、「名前」を付けられた方も「名前負け」というワードがあるように、「名前」に相応する実態が求められることもある。それによって色々と起きるのは学校生活で屡々目にしてきただろう。

 また、姿については先人たちによって指摘をされまくっているが、姿を知ることで安心しきってしまったり、クッキー型のように「名前」を他者へ押し付けて切り取った/押し込めた姿を見ているだけにもなりかねない。切り抜かれなかった生地に皆様の大好きな本質があることだってある。

 私たちは、このように「名前」が先に来ることでモノそのものを見ることが出来なくなる状況に陥りかねない。必要に応じて門の表札を読むのみならず、チャイムを鳴らして人に会う必要があるし、なんなら門を通って異国に身を投げ出すことも必要だろう。

 加えて、表札が違っても質さなければ、当該の表札で誤認してしまう。他人のみに起きることではなく、誰にでも起こり得る。他人の家の表札をこっそり変える人や、恥じらいも無く堂々と変えていく人だっている。その時の損害はどれほどのものであろう。

 自ら掛けている看板も、誰かに掛けられている看板も、どちらも嘘つきかもしれない。

 

 では、そのような危険があるものなものならば、いっそのこと使用を止めてしまおうと言いたいが、それはあまりにラディカルな行動だ。そんなことをすると、私たちは絶句し続ける以外にない。そこまで行かずとも新しいものの制作をやめ、旧来の「名前」とその組み合わせに頼ろうとしても、それはそれで生き生きとした感じが薄い。

 それならば先に全ての「名前」を網羅しておき、その階層構造も明確化しておく手もある。しかし、これはきっと窮屈で、先ほど同様に見えなくなるモノがある。名付けられていない空間は欲しい。無名があるからこそ、有名が有意義なのだ。

 

 それでもやっぱり「名前」があるほうが便利だし、名前がなければこの社会で生きて行くのは面倒になる。だからといって、面倒になるからネガを認めないのは、それなりのしっぺ返しがあるだろうから、これを含んだ考えを確認したい。

 

 ではそれは、と書いていきたいが、長くなったのでここで仮閉じのポワンを打ちたい。いつにも増して具体的に書いてきたし、細々書かなくても、この行為からも了解されると思う。勿論2回目ながらに「いつも」なんて使うのはご愛嬌ということで。

書くことが無かった

 人は必要があるからこだわりというものを獲得する。

 ブログでも書いてみようと百八念発起してブログを作ってみたものの、書くことが無くて困り果てている私が如実に感じていることだ。特に主張したいことがない。いや、個々人と個別の話をしていると何かと細々言っていて姑みたいになるのは御存じの通りだし、そんな時も大体適当に言いたいことを言っている。

 では、不特定多数が読み得る状況となると、そんなところに出す程の大きな言葉を私にはない。こんな言葉には「こだわり」とか「理想」とか、そんな類いの、他の人からしたら迷惑この上ないことも屡々ある、個人的な何かしらが必要な気がする。

 

 そんな不特定多数に対するに際して、どのような言葉を使うかで、その人というものが分かる。社会に反発する人、社会に迎合する人、社会なんて念頭に無く個々人に語り掛ける人、自分を訴える人、エトセトラエトセトラ。

 現状の私は個々人に語る言葉や具体的な状況に向けた言葉は持っているけれど、不特定多数に向けての言葉は残念ながら持ち合わせがない。ここがはっきりしている人がきっと一本気のある人とか一貫性のある人というのだろうが、何を言えばいいのかいまいち分からなかったので「とりあえず、定型文を定型文らしく言っておくか」という態度でいたので、こんテの言葉を研磨するタイミングをみすみす逃がしていたんだろうと思う。借用して誤魔化している認識の下、そんな言葉を使っているからそれまた言葉と自分に距離がある。ウソと思って得々とした顔で言っている言葉に乗っ取られることがあるが、ウソと思って申し訳ねぇなと思って使っている言葉はどうやら自分の言葉全体の中に入ってくるが自分の言葉とならないらしい。

 

 こんな調子なので、不特定多数向けの自分の言葉が無い、むしろ不特定多数に言うべきでない言葉しか持たないので、文章を書いたりということはするべきタイプの人間ではないのである。とは言いつつも、それはそれとして今から適当に作っていくのもありだろうという話で、それならその必要がある場所としてこんな場所を設けるのも一つの手だ。私はこだわりが欲しいのだと、ウソと思って得々と語ってみるが、果たして来週から一体何を書くというのだろうか。さっぱり分からない。

 しかし、人生に必要なものはハッタリである気もするし、書くことが無いということさえ書くネタにすることだってできるのだ。何とかなるだろうと思いつつ、最初に書くネタとしてネタ無いというカードを切ってしまったのはかなりの痛手だった気がする。

 書くことがないのに書こうとするのは、やはり無謀でリスキーなんじゃないだろうか。